切り片のある側、ない側

認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(方向性あり)。

1-8

自分の怒りが信用できない。
「これは怒っても正当だと言えるだろう」という隠微な狡猾さが自分のなかにある。
あるいは、不安正しくは「恐怖心」を「怒り」が代弁する。
自分でこの「怒り」は正しくないと感じる。

会社で、「仕事の遅い人、できない人」に怒っていたことがあった。もちろん、この「仕事の遅い人、できない人」などというのは、借り物であり、虚構だ。
私が他人をどうやって「精査」できるだろうか?
この自分の怒りを「精査」すればわかる。一瞬のうちに「怒ってもいいだろう」、「これは怒るべきことだから、誰かが怒るようなことだから、怒っても良い」…
こんな虚妄があるだろうか?

私が誰を精査できる?裁判にかけられる?ダメだと言える?どうして私の考えが(所詮、借り物なのに!)正しいなどと言える?

そして頭の中でその人の尊厳を踏みにじることが、どうしてできるだろうか?

その次に私は「精査する人」「人を安易に否定する人」「怒れる人」を憎むようになった。これもまた、愚かなことである。

認識は変わったが、何も変わっていない。とりあえず自分の怒りは、くだらないと思う。

それでも自分の奥底に、「これは怒っても正当だと言えるだろう」という許可を得てから、少しだけ表現する「怒り」の炎があり、ずっと燻っている。

いつからだろう。私はずっと怒っているのだ。

もはや今は怒りのために笑い、怒りのために怒らない。怒れば怒るほど私は微笑み、許すだろう。