切り片のある側、ない側

認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(方向性あり)。

1-12

ウナムーノ「アベル・サンチェス」読了。

ホアキンは、遠くへ引越してアベルから遠く離れてもまたべつの「アベル」を発見しただろう

で、「アベルがまた生まれ変わってオレに嫌がらせを」とか言い出しただろう。根本敬の画でうかぶ。


ホアキンは己の怠惰に気がつくべきだったと思うわたしは傲慢ですか?あら、いやだ。


‪ウージェーヌ・シュー「パリの秘密1~5」ってどんな出方するのかしら…5冊いっぺんに出るのかな‬~。

‪でもCHANELNOIRリピやめたし、お化粧品も最近買ってないから(西武百貨店がつぶれたのだ…そして都会へは出たくないのだ…そしてもうひとつの百貨店からはCHANELが消えたのだ…)買える

私は香水がとにかく好きで沢山持っている
でも香りが嫌いな人もたくさんいるから、つけるのを遠慮するようになった。

このあいだ、海外作家の作ったうさぎのぬいぐるみ、欲しかった。うんじゅうまんって…。

1-11

待ちに待ったルリユール叢書2冊が届いた。2、3ヶ月に2冊ぐらいのペースなら、むりなく買い揃えていけそうだ。

わたしは古本がとにかく苦手なので、国会図書館のデジタル・データや青空文庫が本当に助かる。なんて素晴らしいんだ。なんて親切な人たちだ。図書館の本も苦手である。でも図書館に行かないと間に合わなくなってきた。ボウルズを読み返したいのと、岩波からでていた叢書の現代文学のフロンティアをすべて読みたいのだ。

気になって仕方の無いことならもっと無数にある。なんなら気になることを一日中探している。この「馬から落馬」「夢の中の夢」状態が、なんらかの病の兆候でなければ良いのだが。

だから哲学書や前衛的なものはやめている。現世的すぎるものやポップなものもやめている。評論はもちろん辞めている。愛ある評伝なら読んでもいい。

10年以上本が読めず何も書けない状態だったが治った。
治るって、あるんですね。

イバーニェスや梅崎春生が楽しい。いまはルリユール叢書のネルシア「フェリシア、私の愚行録」を楽しんで読んでいる。
サドは全て読んだし、ギュヨタも好きだ。ギュヨタは97年に出たペヨトル工房の「エデン・エデン・エデン」。

時代が変わってしまったあと、まだまだ熱い文学愛に溢れた人たちが本を出してくれる。その世界像と、もう一度出会えた私は幸福である。

病?否、それはブレーキだった。あの時、私は立ち止まってしまったのだ。でも、まあ、それで良かった。

さて、私は観念ではない。

米米
観念など砂、拳をひろげれば落ちるもの。

米米
手前の想念も砂、相手を撲るそのくるしい拳を広げたらよろしい。

ごはんごはんごはん。

1-10

ちまちました作業がしたい。

マッチ棒で家を建てるとか、ペーパークラフトで戦艦を作るとか、ガンプラを作るとか、半田作業をするとか、

はなしはほとんど決まっていて、1行目にかかろうとしたら、描きたいシーンがかんたんなのにむずかしく、とても楽しい。

編み物が1番いいなあ。レース編みがしたい。百均に行こうかしら。

1-9

‪東京に行ってみたい。成城石井もこっちにあるのとは、全然ちがうらしいし、ラデュレの銀座店に行ってみたい。‬

もう潰れてしまった、大阪伊勢丹の中に一瞬あったラデュレは期待はずれだった。

リッツ・カールトン大阪が私の知ってる1番ラグジュアリーなお茶である。ふかふかソファの謎の時間の記憶がよくわからないけど、ピアノのそばでケーキセットを食べたら、母の声が聴こえなかった。

でも、まあ、駅前の喫茶店でいっか。

1-8

自分の怒りが信用できない。
「これは怒っても正当だと言えるだろう」という隠微な狡猾さが自分のなかにある。
あるいは、不安正しくは「恐怖心」を「怒り」が代弁する。
自分でこの「怒り」は正しくないと感じる。

会社で、「仕事の遅い人、できない人」に怒っていたことがあった。もちろん、この「仕事の遅い人、できない人」などというのは、借り物であり、虚構だ。
私が他人をどうやって「精査」できるだろうか?
この自分の怒りを「精査」すればわかる。一瞬のうちに「怒ってもいいだろう」、「これは怒るべきことだから、誰かが怒るようなことだから、怒っても良い」…
こんな虚妄があるだろうか?

私が誰を精査できる?裁判にかけられる?ダメだと言える?どうして私の考えが(所詮、借り物なのに!)正しいなどと言える?

そして頭の中でその人の尊厳を踏みにじることが、どうしてできるだろうか?

その次に私は「精査する人」「人を安易に否定する人」「怒れる人」を憎むようになった。これもまた、愚かなことである。

認識は変わったが、何も変わっていない。とりあえず自分の怒りは、くだらないと思う。

それでも自分の奥底に、「これは怒っても正当だと言えるだろう」という許可を得てから、少しだけ表現する「怒り」の炎があり、ずっと燻っている。

いつからだろう。私はずっと怒っているのだ。

もはや今は怒りのために笑い、怒りのために怒らない。怒れば怒るほど私は微笑み、許すだろう。

1-7

もちろん知らないことが多い。たいていググれば出てくる。

とつぜん同僚の人。19世紀のイギリス作家「ジョルジュ・ペレ」の「幸福がどうちゃら(すごい小声)」が難解だと仰った。
知らない。「ジョルジュ・ペレック」なら解る。19世紀と違うし、お仏だわ。しらべたけど、出てこず。幸福がどうちゃら。「ジョルジュ・バタイユ」はお仏。「バンジャマン・ペレ」も、お仏。ジョルジュ・サンド…
ジョルジュって名前…フランス人しか…。

では英文学で幸福がどうちゃらの小説を探してみるか。
「オスカー・ワイルド」の「幸福の王子
おそらく違う。では、ジョージの線で捜査してみるか――。とネットをさ迷うも、発見できず。

難解な小説をものする19世紀のジョルジュ・ペレさんどこ?気になるのに。

疲れた。

津原泰水さんのエピソードを読んで、素晴らしい装幀の自分の本がもし出来上がって近所に花村萬月さんがいたら、そりゃあ持っていきたくなるわ~、花村萬月さんの本棚に置いてあると思うだけで誇らしいわ~。と思ったら「花村萬月さんを誰より理解している」みたいな腐女子歓喜の展開で納豆おかき吹いた。

1-6

ヴォネガット全短編かおうかな?と言いつつ、Twitter見てたら次々に美しい本をみつけて、落ち着かない次第。

会社にてヴォネガットよかったと言ったら、SFですよねと仰ったので

スリップストリームって言う概念を知ったので今日言ってみよう…か?

あんまり名付けは好きじゃないよ

もっとぜんぶをなんとなくでいいのです

でも右折は絶対つっこまないです

「今行ける」とか言わないでほしいです

リゼロ打ちたいです