切り片のある側、ない側

認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(方向性あり)。

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待ちに待ったルリユール叢書2冊が届いた。2、3ヶ月に2冊ぐらいのペースなら、むりなく買い揃えていけそうだ。

わたしは古本がとにかく苦手なので、国会図書館のデジタル・データや青空文庫が本当に助かる。なんて素晴らしいんだ。なんて親切な人たちだ。図書館の本も苦手である。でも図書館に行かないと間に合わなくなってきた。ボウルズを読み返したいのと、岩波からでていた叢書の現代文学のフロンティアをすべて読みたいのだ。

気になって仕方の無いことならもっと無数にある。なんなら気になることを一日中探している。この「馬から落馬」「夢の中の夢」状態が、なんらかの病の兆候でなければ良いのだが。

だから哲学書や前衛的なものはやめている。現世的すぎるものやポップなものもやめている。評論はもちろん辞めている。愛ある評伝なら読んでもいい。

10年以上本が読めず何も書けない状態だったが治った。
治るって、あるんですね。

イバーニェスや梅崎春生が楽しい。いまはルリユール叢書のネルシア「フェリシア、私の愚行録」を楽しんで読んでいる。
サドは全て読んだし、ギュヨタも好きだ。ギュヨタは97年に出たペヨトル工房の「エデン・エデン・エデン」。

時代が変わってしまったあと、まだまだ熱い文学愛に溢れた人たちが本を出してくれる。その世界像と、もう一度出会えた私は幸福である。

病?否、それはブレーキだった。あの時、私は立ち止まってしまったのだ。でも、まあ、それで良かった。

さて、私は観念ではない。

米米
観念など砂、拳をひろげれば落ちるもの。

米米
手前の想念も砂、相手を撲るそのくるしい拳を広げたらよろしい。

ごはんごはんごはん。